フリーワンライ93 「しじま君」

使用お題 語らう夜に/恋は罪悪/世界一の○○/静寂(しじま)





 四十万(しじま)君は夜に恋人と語らうときのみ、静寂に包まれたような口調になる。
 「恋は罪悪ですよ」と。
 まるで夏目漱石御大の作品に出てくる誰かのようなニュアンスで、丁寧に言う。
 これが朝か、もしくは昼だったならばもっとうるさく大音量の声で、まるで踏切のこちらと向こうにいるかのように叫びながら、少しぞんざいな調子で話をする。四十万君の恋人も同僚も、耳栓をするくらいで丁度良くなる。近頃彼は、折に触れて自ら耳栓を配るようにしている。誰も彼も不思議そうな顔をするが、一分と経たないうちに耳栓の必要性を知ることになる。
 四十万君の恋人も、最初の夜を迎えたときには思わず耳栓を外して、「え?何ですって?」と聞き返さなければならなかった。結局そのとき四十万君が何を言ったのかは未だに分かっていない。
 彼女は今では慣れたもので、四十万君の口もと20センチに耳を近づけ、目を閉じてその声に耳を澄ませる。四十万君の声は、風のない夜の浜辺のようだ。波は寄せては返し、音は止まないが、しかしどこか安心させる律動がある。
 「恋は罪悪、なの?」
 なぜ恋人に対してそんな配慮のないことを言うのか。本当は付き合うことに対して否定的なのだろうか。
 彼女は本当は傷ついているが、それを表情に出さないように努めていた。目を閉ざしているのは、もしかすると本当は涙を体の外に出さないための努力かもしれない。
 「いえ、発音が良いと思って、言ってみただけです」
 四十万君は声に似合った穏やかな表情をしているのだろう。まだ彼女は、相手の優しい顔を見ることが出来ない。
 「こい、と強い発音が来たあとに、ざい、と流れるような音、そして最後にあく、のく。カ行って強いですよね、何というか。僕もカ行のような、強い男になりたいです」
 「…言っている意味がよく、」
 分からない。
 彼女はシーツでごしごしと目を擦ると、改めて四十万君の顔を見た。至近距離にいる相手の顔はまだぼやけている。
 「どうかしましたか、丸々さん」
 四十万君は彼女の名前をもじって、いつもそうやって渾名で呼ぶ。それが今に限っては何だか揶揄されているように思えて、彼女は肩を震わせた。
 「貴方が、変なこと言うからでしょ」
 四十万君は恋人が泣いている理由が分からずおろおろするばかりだった。何故四十万君と交際しているのかと、彼女は頭の中で繰り返し思ったことを今日も思う。
 別れられないのはきっと、最初の夜に四十万君が囁いた言葉の内容がまだ気になっているからだ。喉に小骨が刺さっているかのように気にかかっているから、中々離れられないのだ。
 彼女はそう結論づけることが多かった。そこに至れば決まって四十万君を問い詰めたが、彼は顔を赤くして首を横に振るばかりで、そのときは、朝であろうと昼であろうと夜であろうと何も言わずに静かになるのだった。
 名前のごとく。
 「泣かないでください、丸々さん」
 四十万君は静かに言う。
 「じゃあ最初の夜に何て言ったか教えて。そうしたら頑張って泣き止むから」
 四十万君はまた赤面したが、今度ばかりは首を振らずに思いつめているようだった。
 今夜こそは聞けるのか。
 「…丸々、さんが」
 その言葉を語り始めた四十万君は、まるで浜辺の波が収まってしまったかのような声をしている。この静寂が自分を惹きつけて止まないのだと、彼女は本能的に察知する。
 「僕にとって、世界一の…」
 彼女は呆けたように口を開いて四十万君を見つめていて、確かに泣くことを忘れ去ってしまっていた。





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