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フリーワンライ92 「目薬/ソーダ水越しの景色/肌寒い夜は」




 目が痛いと泣いている彼に好かれと思ってソーダ水をかけた時から、私は彼のことが好きになっていたのかもしれない。

 「ちょっとまだ準備出来てないってどういうこと!?出発は明日の始発だって言ったじゃない、あっ、もう明日じゃなくて今日だ…」
 彼は掛け時計を見上げて青ざめながらそう言った。
 既に日付が変わってから三十分以上経っている。
 私にとっては殆どどうでもいいことだったので、座り込んだままぼんやりと、開いたままの旅行鞄を眺めていた。それがまた彼の逆鱗に触れたらしい。加減を忘れてしまっているのだろうという、かなりの強い力で腕を引かれた。仕方なく立ち上がれば、初めて自室が惨状と言っても差し支えないくらいに散らかっていることに気付かされる。
 道理で旅行の準備が進まない訳だ。
 「まあまあ、落ち着いて、ソーダでも飲みなよ」
 私は昔買って貰ったまま部屋に在り続けている学習机に置いていた透明のグラスを差し出した。なみなみと注いであるそれは、思えば全く口をつけていないので注意を払っていなければ中身が溢れ出てしまいそうだが、彼はそんなことに頓着せず、乱暴にグラスを受け取った。ソーダ水は一滴もグラスの範疇を超えなかった。
 変なところで器用なのだ、この男は。
 「何これ、気が抜けてるじゃないの」
 「何を失礼な、こう見えても考え事に忙しくて、そんな準備を疎かにしていたつもりでは」
 「違う、あんたじゃなくて、このソーダ。いつ注いだの」
 「…さあ」
 「さあって…」
 確か考え事を始める前だった筈だ。
 「日の暮れるちょっと前かな」
 彼は私の言葉を聞くと、半分だけ飲んだソーダ水を机に置いてがっくりと項垂れた。怒ったり悲しんだり、見ていて飽きない人だ。
 「出掛ける気がないなら初めからそう言ってよ…楽しみにしてたこっちが馬鹿みたいじゃない」
 「そんな、やる気がなかった訳じゃないんだけど、だって…温泉とか言われてもぴんと来なかったし」
 「ただの温泉じゃなくて、炭酸。血液の循環が良くなって冷え性とか、治るんだよ。あんたいつも手足冷たいから。温泉に浸かったら、少しは良くなるかなって」
 そう言って彼は無遠慮に私の手を掴んで、徐ろに揉み始めた。昔ならばすぐさま振り払って蹴りを入れる場面になるが、今ではそんな気力も起こらない。
 「そんなのいいよ、いつも何だかんだであつくなるし。この前の肌寒い夜だって、最後には」
 手を振り払ったのは彼のほうだった。顔をにわかに赤くして、焼餅のように頬を膨らませている。
 いや、そういうのは女がやるのがあざとくて可愛いんだって、普通逆だろ。
 私は思ったことは言わずに、床に散らかっている物を鞄に放り入れる。出掛けるつもりがない訳ではないのだ。着替え、化粧水、文庫本、順に鞄の中に堆積させていく。いつの間にか部屋の隅に追いやられていたポーチを鞄まで投げれば、不意に彼が邪魔をするようにポーチをキャッチャーよろしく取り上げた。
 「まだこのポーチ使ってるんだ」
 「だって初めて買ってくれた物だし、悪い?…って、ちょっと!」
 彼が許可を取ろうともせずにポーチを開けたので、私は声を荒げてしまう。
 「雑誌の付録だったし…こんなもの、いつまで取っておくの。また新しいの買うから」
 そう言いながら臆することなく中身を検分し始める彼は、手に当たったものを不意に取り出して暫く眺めてから、部屋の電灯に透かして見た。
 彼の手の中で余計に小さく見える、目薬だ。水面が電灯を通して、彼の顔にきらきらと紋様を作っている。
 私は取り返すことを忘れて彼に歩み寄り、一緒にその容器を見上げた。
 「…炭酸なら、目にも良いいかもね」
 私の言葉に、思わず彼は吹き出す。多分他の人が聞いていたらなんのことだと訝るのだろうと予想しながら、私も少しだけ笑ってしまう。
 「って、笑い事じゃないよ。私が頑なに目を閉じていなかったら、ソーダを浴びた目は今頃どうなっていたことか。よくやった、五歳の私」
 「でもその後、直ぐに大人に目薬を貰えたから良かったじゃん」
 「それからはあんたが専属の目薬係みたいになったんだよね。いつソーダをぶっかけられるか、暫くは気が気じゃなかった、本当に怖かったんだから」
 彼の顔は、とても恐怖体験を思い起こしているようなものではなかった。その表情を見ていると、私の体温は自然と上がってしまう。
 果たして冷え性に効く炭酸の温泉など必要なのだろうか。
 そう思いながらも、それからの準備は不思議と捗った。





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