和風即興創作「或る晩の記憶」

利用お題: たおやかな 詠み人知らず





 目を覚ましたのが宿坊であると気付くまでに暫くの時間を要した。
 普段の癖で携帯の画面に現在時刻を求めようとして布団から手を伸ばしたが、今は鞄の奥深くに電源を落として仕舞っている。仕方がないので、遣るところのなくなった腕は額に乗せて、目を閉じ静かに溜め息を吐く。
 真夜中、である筈だ。と言っても、寝入った時刻が日の入りからさして経っていなかったため、常ならばまだ起きて事務作業をしている時間かもしれない。
 宿坊で一晩を過ごす旅行をしようと申し込んでみたが、こうやって中途半端に目が覚めてしまうあたり順調ではないという気がする。
 寝返りを打って目を開く。
 障子越しに白い月明かりが輝っていてやけに眩しい。はて、今宵は満月であっただろうか。
 誘われるようにして半身を起こすと衣擦れの音が耳に響いた。それ以外は無音で、何か禁忌を犯しているような錯覚に陥る。
 慎重に、慎重に。まるで誰かからそっと逃れるように。布団から這いずりでて障子に歩み寄る。足が畳を走る音は何故か耳には届かなかった。
 開けて見た空には雲一つなく、空の真ん中には満月が浮かんでいる。それがあまりに明るくて、周りの星は一切視認することが出来ない。
 眩しい。月とはこんなにも網膜を刺激するものであっただろうか。ただ太陽の光を受けているだけなのに、まるでそれ自体が発光しているかのようだ。
 美しい。
 と、口に出して言ってしまっていたらしい。
 月から遥か離れた地上の、宿坊に面した庭で動いた影があった。どうやら僕の発した言葉に反応したようだ。
 「おや」
 向き直った人影が、僕の口を開けたままの間抜けな顔を認めたらしい。同時に、こちらも相手の姿を目にすることが出来た。
 艶やかな赤の着物姿だ。振り袖だ。日のもとに晒したら大層映えるだろう。芥子色の帯には細かな文様が見える。一見すればどこぞのお嬢様のような出で立ちなのに、僕は直ぐに別の箇所に目を引き寄せられていた。
 剃髪されている。
 若い顔立ちであるのに髪の毛がない。ここが寺であるので当たり前と言えば当たり前なのかもしれないが、僧侶にしては着ているものが異質だ。
 化粧を施していないためかあどけない顔をしているように見える。睫毛が長く輪郭は女性らしく丸みを帯びている。そして何より、頭の形が喩えようもなく美しい。均整が取れている。
 まじまじと観察しているにも関わらず、彼女は暫く感情の読めない目でこちらを見ていた。しかしじきに、何かを思いついたとでも言いたげなきっぱりとした態度で歩み寄ってきた。
 「どうか誰にも言わないでください。嫁入り前にお寺に入ったけれど、この振り袖だけはどうしても手放せなくでこっそり持ち込んだの。こうやって誰の目もない夜だけに着て、昔を懐かしめるようにと」
 そう言った声はたおやかに僕の耳を撫でた。彼女そのもののような声だった。

 つくづく不思議な夢だ。
 出家した筈の尼がこっそり私物の振り袖を持ち込んで、夜な夜な着用していた。目撃してしまった僕の口止めをするために、彼女は。
 そこまで思い出したところで慌てて首を振って記憶を振り払う。ここは寺だ。この回想は、あまりにもこの場にはそぐわない。
 今朝は日の昇らないうちから読経を聞いた後、この地域に纏わる説話を聞く算段になっていた。
 部屋を移動した僕は、史料の巻物を見て息を飲むことになる。
 詠み人知らずの悲恋の歌のあしらわれたそこには、一人の尼の姿が描かれている。赤い振り袖を纏って、共に逃げる約束をした男をいつまでも待つ彼女は、未だにここにいるのだと妙に確信した。








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