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フリーワンライ110 「ちょっとした絶望」

一口だけ/音信不通/本当は知ってた/千年の空/立つ鳥あとを濁さず





 「一口だけ頂戴」
 あの子の口癖はと聞かれればこう答えるしかなく、彼は眉根を寄せるのだった。
 「だって、強請るなんてあまり品がないじゃないか」
 彼は拗ねたように言う。しかしそれが上品下品を基準とした感情ではないことは、言った本人も、聞いた相手も分かっている。
 あの子はもう彼の前には現れないからだ。
 だから、彼は不機嫌になっているのだ。
 あの子が居なくなったのはつい一昨日のことだった。
 彼が夜更けに仕事から帰ると、今朝まで生活感に溢れていた2DKのアパートは自棄にだだっ広く広く広がっていた。家具がなかった。その上物件サイトや不動産屋で見る写真のように、小綺麗だった。
 果たしてフローリングはこんな色であっただろうかと、彼は驚くよりもまずそんなことを思った。
 それから帰る部屋を間違えただろうかと慌てた。
 いや、そんな筈はない。数十年前ならともかく、アパートの部屋は一つ一つ違う鍵が当てられている。
 部屋を歩き回る自分の足音が彼の耳についた。段々荒くなっていく息遣いが、漸く彼を慌てさせた。
 唯一あった物体、床の隅に追いやられていた彼の縒れた下着を目にした時、恋人に逃げられたのだと、あまりにも陳腐で、あまりにも悲しい失恋の事実に思い至ったのだった。

 「立つ鳥あとを濁さず、か」
 彼の話を聞いていた相手は少しだけ面白がっている風だった。あの子と入れ替わるように上がりこんできた相手は、何もない部屋で、彼とあの子が嘗て生活を重ねた場所で缶ビールを煽っている。冷蔵庫もないので、近所のコンビニから買ってきたばかりのものを開けていた。部屋の主である彼は咎めこそしなかったが、部屋の隅に踞って恨めしげに相手を見ている。
 「いくら電話をかけても、メールをしても繋がらない。音信不通だ。でも…本当は知ってたんだ。あの子が…」
 うう、と、彼は言い終わらないうちから嗚咽を漏らした。
 「いいじゃないか」
 ビールで頬を染めた相手は、今度は笑みを漏らした。
 「あの子が無事に避難出来たんなら、さ。家具も売ってお金に出来たんだろうし」
 「そりゃあ、そうだが」
 彼は鼻を啜ってから言葉を継いだ。
 「でも、俺たちは真剣に仕事してるっていうのに…地球だって救われるかもしれないのに」
 「賢明な奴は避難するだろうさ。誰もこんな、いつ大気がなくなるか分からない星には居ないだろ」
 「千年ぶり、だったか」
 「ああ、空が落ちてくる。お前の顔も見納めだ」
 「お前は失敗すると思っているのか、俺たちのプロジェクトが」
 「ああ思うね、賭けてもいい。だから飲み納めしてんだ」
 信じられないという具合に目を見開いた彼の黒い瞳を切り裂くように、一筋の彗星が降り注いだ。
 屹度彼は最期の瞬間もあの子を想うのだろうと想像して、相手はビール缶を潰した。






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