試し読み『北極に届く程度の想い』

※このエントリーは10月8日(土)テキレボにて頒布する新刊『北極に届く程度の想い』のサンプルです。





 前足の先を海水に浸してみる。
 思った通りだ。冷たい。冷たくて堪らないので思わず引っ込めた。
 足を浸けている氷や、肌に触れる外気のほうが温度は低い筈だ。知識としてそれは頭に入っている。なのに、触れている水を冷たく感じる。液体に対する先入観だろうか。飛び込むのがとても怖い。
 辺りを見回す。吐いた白い息が凍って景色を不明瞭なものにする。吐ききった息を静かに止めれば、濃い灰の雲と氷の陸地の境界線が見えてくる。雲の重なる下、空の果てが一番明るく白に近い。耳に届く音は無に等しく、一見すれば生き物の気配はないが、よくよく目を凝らせば遠くの流氷に海豹が寝そべっているであろう、黒っぽい点が見える。
 美味しそうだ。
 あの肉体に歯をたてる瞬間はさぞかし気持ちいいだろう。
 あれを食べたい。
 しかし、泳がないとあそこには辿り着けないのではないだろうか。
 水に入らなければ、ならない。
 態とらしく首を横に振って、水面に鼻を近付けてみる。微かに薄荷のにおいがする。
 時間稼ぎをしても意味がない。それどころか、海豹は氷に乗ってどんどん流れて遠くに行ってしまうだろうし、先程から氷の岡に隠れてこちらを窺う雌のシロクマは、くすくすと笑っている気がする。きっと僕に意気地がないから、嘲笑っているのだ。
 僕は黒い鼻から大きく息を吸い込むと目をぎゅっと瞑って四肢に力を込め、体ごと傾けて海に飛び込んだ。
 多分間抜けな音がして大きく波飛沫がたっただろう。が、僕が聞いたのは耳を滑っていく空気の小さな玉のぼこぼこという音だけだった。予想はついていたが、陸にいるよりも寧ろ暖かい。
 恐る恐る目を開いてみると、水の青が視界に飛び込んでくる。見下ろせば前足の先には、藍の空がどこまでも深く広がっている。僕の四本の足は動かなかった。このまま、深海へと沈んでいくのだろう。

 目を開くと同時に全身汗びっしょりであることに気が付く。僕は唸り声をあげながら身を起こした。喉がからからに渇いていて声が掠れている。
 いつものアパートの一室だ。僕の部屋だ。しかし見慣れた風景ではない。






『北極に届く程度の想い』 A5/26p/300円
webカタログにも詳細を載せています。

フリーワンライ110 「ちょっとした絶望」

一口だけ/音信不通/本当は知ってた/千年の空/立つ鳥あとを濁さず





 「一口だけ頂戴」
 あの子の口癖はと聞かれればこう答えるしかなく、彼は眉根を寄せるのだった。
 「だって、強請るなんてあまり品がないじゃないか」
 彼は拗ねたように言う。しかしそれが上品下品を基準とした感情ではないことは、言った本人も、聞いた相手も分かっている。
 あの子はもう彼の前には現れないからだ。
 だから、彼は不機嫌になっているのだ。
 あの子が居なくなったのはつい一昨日のことだった。
 彼が夜更けに仕事から帰ると、今朝まで生活感に溢れていた2DKのアパートは自棄にだだっ広く広く広がっていた。家具がなかった。その上物件サイトや不動産屋で見る写真のように、小綺麗だった。
 果たしてフローリングはこんな色であっただろうかと、彼は驚くよりもまずそんなことを思った。
 それから帰る部屋を間違えただろうかと慌てた。
 いや、そんな筈はない。数十年前ならともかく、アパートの部屋は一つ一つ違う鍵が当てられている。
 部屋を歩き回る自分の足音が彼の耳についた。段々荒くなっていく息遣いが、漸く彼を慌てさせた。
 唯一あった物体、床の隅に追いやられていた彼の縒れた下着を目にした時、恋人に逃げられたのだと、あまりにも陳腐で、あまりにも悲しい失恋の事実に思い至ったのだった。

 「立つ鳥あとを濁さず、か」
 彼の話を聞いていた相手は少しだけ面白がっている風だった。あの子と入れ替わるように上がりこんできた相手は、何もない部屋で、彼とあの子が嘗て生活を重ねた場所で缶ビールを煽っている。冷蔵庫もないので、近所のコンビニから買ってきたばかりのものを開けていた。部屋の主である彼は咎めこそしなかったが、部屋の隅に踞って恨めしげに相手を見ている。
 「いくら電話をかけても、メールをしても繋がらない。音信不通だ。でも…本当は知ってたんだ。あの子が…」
 うう、と、彼は言い終わらないうちから嗚咽を漏らした。
 「いいじゃないか」
 ビールで頬を染めた相手は、今度は笑みを漏らした。
 「あの子が無事に避難出来たんなら、さ。家具も売ってお金に出来たんだろうし」
 「そりゃあ、そうだが」
 彼は鼻を啜ってから言葉を継いだ。
 「でも、俺たちは真剣に仕事してるっていうのに…地球だって救われるかもしれないのに」
 「賢明な奴は避難するだろうさ。誰もこんな、いつ大気がなくなるか分からない星には居ないだろ」
 「千年ぶり、だったか」
 「ああ、空が落ちてくる。お前の顔も見納めだ」
 「お前は失敗すると思っているのか、俺たちのプロジェクトが」
 「ああ思うね、賭けてもいい。だから飲み納めしてんだ」
 信じられないという具合に目を見開いた彼の黒い瞳を切り裂くように、一筋の彗星が降り注いだ。
 屹度彼は最期の瞬間もあの子を想うのだろうと想像して、相手はビール缶を潰した。






フリーワンライ109自主練 「真夜中の訪問者」






 かたり、と音がした。
 窓の方からだ。
 掌で目を覆っていた私はなるべく訝しく思っている風に見えるように注意を払いながら顔を上げて、ゆっくりと立ち上がった。尤も、部屋の中には私に目を向ける人間などいないのだけれど。
 静かなものだ。
 家人は別室で寝ているし、この書斎には内側から鍵を掛けている。昼間騒がしく鳴いていた蝉は皆消えてしまったのかと疑りたくなる程その存在感を消し去っていて、その代わり虫の声がりんりんと遠くから響いてくる。
 秋が近付いているということだろうか。
 いや、それは当たり前のことだ。
 夾竹桃のあしらわれたカレンダーを捲ってから数日経ったし、何より、窓の方から音がした。
 極めて硬質で、素っ気ない一音。
 知らない人が聞いたら、聞き間違いか、庭の木の実か何かが落ちて窓硝子にでも当たったのか、と勘違いするかもしれない。だが私の耳に入ってしまったのだから、それは別の意味を持つ音になってしまう。
 一歩二歩と窓に近付いていく。嗚呼、今夜は月が綺麗だ。真円ではないが、ぴかぴかと光って家人が趣味で作り上げた庭を照らしている。昼間とはまた違った趣で、青白く染め上げている。
 だから、音の正体がはっきりと見えてしまう。
 窓辺に立つまでもなかった。私の目にはそれが映っていた。
 何、と聞かれれば答えに窮してしまう。何故なら窓枠越しに見えるのは極めて非現実的なものであり、脈絡がなく、私がその存在を認めればすぐさま消えてしまいそうだ。
 だから認めたくない。

 しかし、これが見えてしまっているからこそ、ああ、私が彼女を殺してこの庭に埋めたのは四年前の今日だったなと、実感する。