フリーワンライ99 「密会」

二人だけの竜宮城/ドッペルゲンガー/運命/紅い空/好きと嫌いは表裏一体





 「この曲、『運命』って呼んでいるのは日本だけらしいですよ、先生」
 彼女はそう言うと僕の耳許でふふ、と笑い声をたてた。吐く息が耳にかかった。
 視界は相変わらず不明瞭だ。タオル地の何かできつく縛られているので目は塞がれていて、瞼を押し上げることすら構わない。そのせいで僕の視界は瞼の肉の橙ばかりが広がっていて、まるで夕焼けに一人放り出されたかのように、不安定だ。紅い空の中をふわふわと漂っている錯覚に陥りつつあるが、実際僕の体は椅子に縛り付けられている。
 先刻から耳に入ってくるのは、小学生でも知っているようなクラシックの曲、しかもオーディオの大音量だ。何のために彼女がそんな曲をかけているのか分からない。果たしてここは防音の部屋なのだろうか。いや、防音の部屋でなければ今頃誰かが不審に思ってこの現場を覗き込むくらいのことはしているだろう。しかし、彼女のゆったりとした足取り、彼女の余裕を持った囁き声が、誰にも邪魔されていない環境であるということを証明している。
 「交響曲第五番と言えば、大体は通じるのだそうです」
 彼女の上靴の音は、曲にかき消されて聞こえない。しかし、椅子に縛られた僕の周りをじわじわと焦らしながら、追い詰めるように歩いている気配を察することは出来る。翻るプリーツのスカートが僕の膝に当たっている。彼女の長い黒髪が肩に触れる。微かに甘い香りが、僕の嗅覚を刺激している。
 まるで失った視覚を補おうとしているかのように、様々な体の部位が敏感になっている気がする。
 そう思った僕の何もかもを読んだように、彼女の舌が僕の耳を這った。
 「ふふっ」
 仰け反って逃れようとする僕を見て彼女が笑う。
 唾液の音が水っぽくて嫌だ。
 妙な気持ちになりそうで、嫌だ。
 「き、君は何故こんなことをするのだ」
 僕の声は震えていたと思う。
 「あら、先生のほうからの話ではありませんでしたか」
 彼女は音楽よりも鮮明に声が聞こえるよう、僕の耳許でまた囁いた。
 「確かに指示を出したのは私だ。しかし君に頼んだのは準備室の掃除であって、私を拘束することではない。さては、私を犯罪者に仕立て上げるつもりか」
 「あら、それも良い案ですね」
 「君…!」
 彼女は続くはずだった叱責を妨げるように、僕の首に腕を回した。
 絞められる、と思ったのも束の間、柔らかい感触と確かな重みが膝の上に乗る。
 跨られた。向き合って僕の膝の上に座る彼女の息を吸う気配まで感じ取ることが出来る。
 「先生は何故、私がこんなことをするのか、思い当たる節はありますか」
 「それは」
 思い当たる節ならば、幾らでもある。
 彼女はいつも恨みのこもった目で、僕を見つめていた。直接言葉を交わす訳でなかった授業中も昼休みも、すれ違う機会だけあれば彼女の負の感情を受け取るのには十分で、僕は密かに神経をすり減らしていた。その理由が分かっていたからこそ。
 「それでは何かい、君は私に消えろというのかい」
 「…あら、察しが良いですね。他人である筈なのに、ここまで同じ顔をしているなんて不気味で、不吉で、先生がこの学校に来た日から私の生活は真っ暗の闇でした。何でも自分そっくりの顔に出会うと、長く生きられないと言うではないですか」
 「私も初めて君を見たときは吃驚したよ。この地域には親族も見知った顔も一切なかったから。赤の他人なのに」
 性別すら違うのに、ここまで顔のつくりが似通っているなんて。
 「でもあるときから、そんな瑣末なことはどうでもよくなったんです」
 「…え?」
 彼女はそこまで言うと、僕の目の周りを縛っていたタオルを解いた。途端に血が頭を駆け巡ってくらくらとする。倒れ込みたいのに、目の前に自分と同じ顔があって、まだ体は拘束されていて身動きが取れない。
 予想に反して辺りは暗かった。日が暮れて、とうに下校時間は過ぎているのだろう。僕たち二人の他に人の居ない音楽室は、中庭の池が夜行灯に反射して青い水紋を映している。壁から天井まで水面のようにゆらゆらと揺れていて、まるで水の中にいるようだ。
 「私は元々、然程自分の顔が嫌いではないんです。友だちがいなくなるのは嫌だから、普段は言わないけれど。だから、先生を見つめているうちに」
 彼女の顔が近づいて来る。僕は背筋が寒くなって、彼女から逃れようともがいた。結果椅子が傾いて、僕は椅子ごと仰向けに倒れこむ。僕に抱きついた彼女諸共、だ。
 「…僕は自分の顔が嫌いなんだ」
 背中が痛んで、僕は涙声になっていた。
 「だから、君の顔も嫌いだ…でも君の体は好きなんだよ」
 「え?」
 彼女は顔を上げて、僕を覗き込んだ。初めて意外そうな顔をしていた。
 「君みたいな体に生まれてきたら良かったのにと、何度思ってきたことか。そうしたら均整が取れたのに。か弱そうだと苛められることもなかっただろう」
 「では先生と私は相思相愛ですね。そういう運命だと、この顔が印している訳です」
 「僕の話、聞いてた?」
 何をどう捉えたらその答えを導き出せるのだろう。
 天井の青を眺めたままの僕は海の底にいる心地になって、貝のように口を閉ざすしかなかった。彼女の唇が僕に触れようとしている。
 話の結末に接吻をして起こそうとするのは、海底にいる乙姫ではなく王子ではなかっただろうか。