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フリーワンライ95 「私はそれが欲しい」






 「私はそれが欲しい」
 貴女が人差し指でさして、僕は買われていきました。五月上旬のことでした。
 後から小耳に挟んだところによれば貴女がそんなに明瞭な言葉を発したのは初めてであったようで、ご主人もたいそう喜んで僕を買うに至ったようです。
 僕は自由に動くことが出来ないので、いつも貴女に抱えられ運ばれました。家の中は勿論、近所の公園からデパートの屋上遊園地まで。抱えられ転げ回りまた拾われ、外気を吸い肺は汚れました。一度左の足がもげてしまったこともあります。本当は痛くて泣きたかったのですが、僕の口許はしっかりと縫い付けられていて叫び声をあげることも出来ませんでした。大変につらく、僕がこんな姿になってしまっては貴女も悲しんで、いつものように涙をこぼすかと思いましたが、貴女は僕を拾い上げるとじっと僕を見ましたね。
 あの時の無表情、左足も持ち上げて仔細に観察する目付きは、忘れようとしても忘れられません。
 僕は一瞬だけ、怖かったくらいです。
 もっとも、その後貴女は迅速に動いて、奥様に助けを求めました。奥様は僕の足を縫い付けて、まるで生まれたての僕を彷彿とさせるほど丁寧に僕の体を綺麗にしてくださいました。足を接合するという麻酔を使わない大手術に疲れ果てていた僕の心は、僕の四肢同様に綺麗に洗われたのです。現金なものですっかり上機嫌になってしまった僕ですが、それでも、貴女の僕を見るいつもと違う視線は、体のどこかにこびりついて離れない気がしたものでした。
 それでも、いや、だからこそ、僕は貴女のことが好きになってしまったのでした。
 貴女の決して年相応ではなかった、冷めた目付き、いつも一緒に肌を触れ合わせていることにより伝わってくる体温。これでくらりと来ない筈がありません。
 僕が数年のうちに捨てられるであろうという予想は、常識として持ち合わせていました。その昔、百年生きた物には魂が宿るとされましたが、そんな強靭な肉体を僕は持ち合わせてはいません。貴女の小さい手を離れて袋詰めにされ、運ばれた先でこの身を微塵に引き裂かれるかと思うと身震いがして、夜毎悲しくて堪りませんでした。それでも貴女のように泣くということは出来ないのです。そんな不安な夜はひたすらに、今のうちだと、貴女の肌になるべく触れようとしました。
 けれど、その後永く貴女の部屋に居続けたことを思うとその頃に捨てられて四肢をもがれていたほうが、実は幸せだったのかもしれません。
 奥様の手入れが良かったのか、僕はその後も貴女のそばにいました。といっても、貴女に連れて出掛けることは減り、貴女の部屋の一番奥にある棚に座っている時間が長くなりました。
 ともすれば頭に埃が積もったり、小さな蜘蛛が僕の体を這って、こそばゆかったり無理矢理変な気持ちにさせられたりしましたが、それでも僕は満足していました。貴女の全身を視界に入れる時間が増えたからです。それに、貴女はたまに僕を手に取ってくれました。その時の僕の舞い上がる気持ちと言ったらありません。少し、おかしいでしょうか。以前は毎日毎晩共にいたのに、こんなに触れる時間が減ったのに、それでも僕は嬉しくて仕方がないのです。
 いっそ貴女に飛びつきたい。それでも僕はじっと黙って、貴女の目を見つめるばかりでした。
 ああ、だから。
 まさか僕もこれほど長生きするとは思わなかったのです。齢百歳までは程遠いものの、貴女のすくすくと育つさまをここまで見られたのは、人によっては幸せなことではないか、と思うかもしれません。
 貴女は外に出ていることが多くなりました。赤い鞄を背負い、毎日のようにどこかへ出かけます。長い長いその期間が終われば、貴女は紺色の服を着るようになりました。その美しいさまといったらありません。朝日を受けてどこかへ飛び立ってしまいそうな可憐な姿。僕は棚の上で埃を被ったまま、それでもまだ真っ黒に澄んでいる目で貴女の横切る足取りを追ったものです。
 なのに。
 目の前に広がっている光景は何なのでしょう。
 いえ、僕はそれを本当は知っています。
 昔、貴女と常にいた頃、一度だけ直接見たことがあります。貴女は眠れないと言って、月もない夜にご主人と奥様の部屋に僕を引きずっていったのでした。
 僕は貴女のことが好きです。
 けれども紺色の服を脱がされた貴女に覆いかぶさっている男に、僕はなりたかったのでしょうか。
 いえ、決してそんな嫌なことは、僕の身が自由自在に動いたとしても絶対にしなかったでしょう。僕はこんなことはしません。
 ならば、なぜこんなに悲しいのでしょうか。
 胸が、張り裂けそうなのでしょうか。
 こんな痛みは知りません。左足がもげたときも、小さな貴女と離れ離れになる妄想をして悲しんだときも、この痛さはなかったように思います。
 しかもこの痛みは、例えば貴女が痛い思いをしているのではないかと哀れんで生まれたようなものではないと分かってしまっています。
 もっと、自分本意なものなのです。
 たちが悪い。
 ああ、痛い、痛くて堪らない。
 倒れてしまいたい。それでも僕は、動くことが出来ません。
 男が貴女に抱きつきました。天井を見据えていた貴女は、ふと無表情になりました。そうして、首を捻って僕に視線を寄越しました。
 貴女はあの目付きをしています。じっと観察するような。





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